神無月好子のダメダメ日本日記

☆あんまりメディアで報道されないけど知ってたほうがいい大事なこと書いちゃいます〜☆
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えんとろぴ〜ぎじろく・アイリーンスミスさんのお話
え〜、またまた議事録ですが、写真家の故ユージーン・スミスさんの奥様、アイリーン・スミスさんの「水俣病との出会い」というお話の事を書きたいと思います


今回のは、わかりやすいし、すごく大事なメッセージがたくさんつまっています


すごく綺麗で聡明な方で、後でもう50歳半ばと知り、びっくりしました!!


そんなアイリーンさんが水俣病事件と出逢ったのは1971年9月、
ニューヨークに住んでいた時に知り、夫のユージーンさんと共に「写真を撮りに行こう!」と即決で決めたのだそうで、それ以降1974年10月までの3年間、患者さんの家にお世話になりながら写真を撮り続けたそうです


その患者さんの家には、生きていればその当時のアイリーンさんと同じ20歳くらいの年頃であったはずの娘さんがいたそうで、8歳の頃に水俣病でなくなったのだそうです


当然そのご夫婦も水俣病を煩っていたので、お金をかけて娘さんをきちんとお墓に入れてあげられなかったそうです
なので、アイリーンさんは娘さんが眠っている簡易墓を掘り起こすのを手伝い、手厚く葬ったのですが、あまりにも粗末で木も腐ってきた棺から小さな小さな子供の骨が出て来た時に流した涙の事は、一生忘れられないと、その日も涙ぐみながら語って下さいました


チッソという会社が塩化ビニールを大量生産するために水銀を海中に漏らしていた事から魚が汚染され、その魚を食べた人間が奇形や障害を持ってしまう事になった水俣病


今年で50年経ったこの事件ですが、終わったなどとはとんでもない、まさにこれからなのです


患者さんがどんな目にあってしまったのかは、テレビの映像や教科書などで皆さんご存知ですよね、そしてその恐ろしさも当然理解されている事と思います


そこで恐ろしいのは、あんなに酷い被害を出したにも関わらず、水俣湾はこの50年間、漁獲禁止されていないのです・・・


最初の18年間は全くせず!!1974年10月〜1997年10月までは「行った」と言われていますが、一応仕切網はあるものの、開けっ放し・・・
水俣湾から不知火海へ、魚は自由に行き来していたそうです
これはアイリーンさんが実際に海に潜り自分の目で確認したそうです


不知火海での漁獲禁止は一度もされていないそうです、当然、不知火海でも水俣病の汚染は広まりました


1957年の時点ですでに魚が水俣病の原因であるという事は異論はなかったのに、「全ての魚に毒が入っていると証明できない」という、さも「法律ではそれはできなかったから仕方ない」というような理由を挙げているそうですが、バカじゃないか?としか思えません


食中毒と同じ様に、販売停止や業務停止をすれば良かっただけの事、それを「食品衛生法は適用できませんでした」なんて・・・


障害を持ってしまった患者さんに、どういう顔を向けるのでしょうか、狂ってる!


そして更に驚く事に、水俣病事件では50年経った今でも、行政が水銀の汚染にさらされた住民の健康調査を一度も行っていない!!というのです


正確な病像を把握するのを阻害して、御用学者の方が都合のいい認定業務をしやすくし、悪用してきたのです!

住民は1959年、無理矢理、見舞金契約というのをさせられたそうです
当然住民はその事で裁判を起こしました、そして1973年3月20日、熊本地裁が住民勝訴の判決を下しました


チッソという会社は
「道徳的責任はあるが法的責任はない」とまで言い放ったそうですが、裁判で負けました


「新認定患者」となった人達も、なんとかチッソとの間に保証協定を結ぶ事ができました
それも、最初はチッソが「あなたたちは今までの患者とは違う新認定患者だから」と、保証しないと言ってきたので、患者さん達が頑張って本社に乗り込み交渉し続けた故の結果です


この時アイリーンさんは、いろいろな人が一緒になって取り組めば、正義が勝利の日の目を見る事もできるのだ、と教わったのだと言います、そしてその心の灯りは一生消える事はない宝物だと・・・


でも、こういった努力も本当に大変だったようで、夫のユージーンさんはチッソの御用組合の人達に暴行され負傷し入院までしたのだと言います


アイリーンさんは言いました
こうやって水俣病の患者さんや、全国各地の公害被害者の方々が頑張ったからこそ、環境の法律が1970年代に厳しくなり、そのおかげで日本国内の環境汚染が減ったのだと


今の私達若い世代の人の体内にある有害物質が、ある量よりも少なくて済んだのは、公害患者の方々が闘ってくれたからなのです!


私達は、「世の中おかしいものはおかしい」とはっきりと言って来た人達からの、総合的な恩恵を知らず知らずのうちに受けているのです!!


その頑張って下さった方々に敬意を表す意味でも、今の恵みを大切にしなくてはいけない、これ以上汚してはいけない
だから、今起こっている事にもおかしいと思うなら、「おかしい!」と頑張って言っていきたいものだと・・・

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今でも、世界各地でよりよい社会を作る為に、多くの人が闘っています!
意思表示をするだけで牢屋に放り込まれたり、「消されたり」、弾圧を受ける社会に住んでいる人もいます


日本は、条件的にまだ恵まれています
だから、日本では精一杯がんばらなくてはいけないと思うのです


「一応がんばりました、一応意思表示をしました」というのは、命がけで頑張ってくれた方々に失礼です


特に戦後生まれの方は、その当時知らず知らずに使っていたプラスチック製品、その便利さと安さの代償を水俣病の患者さんたちが今日もその体で支払わされているからです
「とっくに使い終わっている商品」のために・・・


何が「便利」なのでしょうか?ちっとも「便利」じゃないですよね


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公害や環境破壊は大昔から続いている人間の「不公平」の現代版だと思う


奴隷も植民地もそうだ、今でもそういった不公平を繰り返し続けている


チッソという会社は水俣病で公害を起こし、それで人間を殺し、病気にして、
営業でもうけたお金は首都圏へ持って行き、千葉に「五井工場」まで建てた
まさに不知火海の魚・人間の命で建てたものと言えます


恐いのは、その工場や工場で生み出される商品を見た所で、そんな命の上に成り立っていると言うのが、特段見えない、という事です


現在でも、世界銀行や国際通貨基金などがどれだけ酷い搾取をして発展途上国を苦しめていても、その会社名やビルを見た所で、命が見えてくるわけではありません


けれども、それらによって確実に苦しめられ命を奪われた人間(動物、自然も)はいるのです


アイリーンさんが水俣病と出逢って最も学んだ重たい事実は
「自分はいつでも水俣病問題から逃げらる立場の人間だ。けれども患者さんは逃げられない」という事


「あなたが子の5年間水俣病だったので、次の5年間は私がなります」という事はできません


たしかに、現地の人間でもないし、水俣病に直接関わった人ではないかもしれないが、
「自分にとって一番大切な命はお国などにまかせられない!」という精神を持って、自分達で命の大切さを肌で感じ取り、何が間違っているのかを鋭く見極められる、水俣病患者さんのような感覚はずっと必要な事だと思う


アイリーンさんは、科学は愛だ、という事を水俣で学んだと言います
愛で初めて物事が見えてくる、と・・・


机の上でデータをいじっただけではわからない!求め、肌で触れた体験でようやく何かがわかってくる


誰から何を学ぶのか、それは「専門」という所からとは限らないのだ、
という事を、水俣の患者さんから教えられたと言います

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私達は、「一応頑張る」のではなく、やはり実りを生み出す事が大切、成功しなければならない


だって、命に関わるのですから


しかし、結果を出す事に目を奪われてはいけない
そのプロセスの中にある事そのものが、これからの社会のあり方を作っていくのだから
楽しく、フェアにやらないと本末転倒になってしまうという事だと思う


アイリーンさんはこんな事を求めて水俣の事を国内外に広めて行きたいと思っていると言います
そして、プルトニウムによってまた公害、環境汚染が繰り返されようとしているので、それを止めて行きたいと思う!六ヶ所の再処理工場は止めなくてはならない、でなければ日本人は何も学んだ事にならない!と


アイリーンさんの言葉、書かれたレジメを元に書いているので大きな違いはありませんが、流れで読める様に前後させたりはしているのでご了承下さい


この日伺ったお話は、どれを取ってもその通りだなぁと思うと同時に、そのお人柄に大変感動した神無月でした
(いつもはもっと読みやすくなるよう見直すのですが、今日はやりません、寝ます)
水俣病 | 01:29 | author 神無月好子/かんなづきすきこ | comments(0) | trackbacks(0)