神無月好子のダメダメ日本日記

☆あんまりメディアで報道されないけど知ってたほうがいい大事なこと書いちゃいます〜☆
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ひめゆり



5月26日から「ひめゆり」というドキュメンタリー映画がポレポレ東中野でロードショー公開されます。http://www.himeyuri.info/


明日5月5日には、新小岩メイシネマで1日限りの先行上映があります
http://homepage2.nifty.com/creatoise/maycinema/html/mc0705c.html




沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が行われました。
1945年3月23日、ひめゆり学園の愛称で親しまれた女学校から戦場へ学徒動員され、看護活動に従事した15〜19歳の少女たち。上級生にとっては卒業式の2日前のことでした。222人が戦場に動員され、123人が命を落としました
そのひめゆり学徒動員で生き残った少女たちは、今はもう80歳前後。1994年から、柴田監督が13年間撮り続けた証言をまとめたものが、ドキュメンタリー映画「ひめゆり」です


2月はその試写会に向けての広報のお手伝いをさせていただきました、たくさんの方に観に来ていただけて、メディアに取り上げていただいたり、コメントを頂く事ができました

宮本亜門さんは、『私の一生のお願いです。「ひめゆり」を観て下さい』と。


お友達の△ーパーコさん、スタイリストの高橋靖子さんがパンフレットに掲載のコメントを書いて下さいました
http://blog.goo.ne.jp/hwj-takahashi/


デザイナーの信國太志さんが、DAZED JAPANの映画レビューに、大きく取り上げてくださいました


坂本龍一さんが、3月4日のレディオサカモトの放送中に宣伝してくださって、サイトにもリンクして下さっています
http://www.j-wave.co.jp/original/radiosakamoto/program/top.htm


ガルシアマルケスさんも、沖縄店にポスターを貼って下さり、もうすぐHPのニュース欄で紹介してくれます
http://groovinhigh.jp/


観に来てくれたaki69ちゃん、98ちゃん、カナメちゃん、しんこさん、ゆきさん、ゆうこさん、響さん、ひとみちゃん、誠治さん、ビデオ観てくれたカクマクシャカくん、and more 


たくさんのみなさんに感謝しています



映画の内容は、これから観てくださる方へのお楽しみですから、今日は3月4日に開かれた、上江田千代さんの講演会のお話を中心に書きたいと思いま〜す


「ひめゆり」というとアバウトですが、少し解説すると
ひめゆり学園の教師、生徒の中で、いわゆるドラマ化などされている沖縄陸軍病院での看護活動をした人が「ひめゆり学徒」と呼ばれています。15歳〜19歳の生徒222名と教師18名のうち、
生徒123名、教師13名が亡くなりました


まだ1年生で、「ひめゆり学徒」にはならなかったものの、別の部隊での看護活動や地上戦に巻き込まれて亡くなったひめゆり学園の方々は、
生徒88名、教師3名


合計すると、ひめゆり学園全体で、
生徒211名、教師16名、計227名もの尊い命が失われました


上江田さんは、1年生だったため「ひめゆり学徒」としては活動しませんでしたが、自ら志願し看護活動に従事されました

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1944年8月21日、対馬丸が那覇から九州へ学童疎開の生徒達を乗せて出航しました


しかし8月22日、米軍ボーフィン号による魚雷攻撃を受け
児童775人、一般人500人強が亡くなりました


当時日本では、教育勅語の影響を受けた軍国教育がされ、セーラー服も“外国のもの”という事で禁止になるほどでした


国家予算の75%が軍事費だったそうです


アメリカ軍は最初、慶良間諸島に上陸


10月10日には沖縄で初めての大空襲があり、1日中続いたそうです
警報が鳴るのが非常に遅く、鳴った時にはもう敵機が来ていて逃げられなかった


アメリカ軍は日本軍より賢く、飛行場、那覇の町、那覇の港の3点を重点的に攻撃し
沖縄戦の為の武器、弾薬、食料を全滅させたそうです


当時は、捕虜になるのは恥で、生き残れば家族が周りから白い目で見られてしまう
鬼畜米兵につかまれば女性は犯され股を裂かれ殺されるので
だから「死ね」(自決しろ)と教えられていたそうです


大地一面が本当に血の海だった。。。。


方言を使うものはスパイとみなされ、方言しか使えないお年寄りはみんな日本兵に殺された。。。。


泣く赤ちゃんを、「敵に見つかる」からと、母親に殺させた。。。。


これが、戦争の現実なんですね。。。。。
戦争映画など、所詮戦争を知らない人が作ったものでしかないんだな、という事をつくづく感じます


涙を誘う盛り上げシーンなどはまったくない、ただひたすら語られる体験談
しかしそれは映画などでは決して知る事ができない、想像を絶するものばかり。。。


当時、台湾に兵が大勢行っていたため、沖縄の日本兵は少なかった
沖縄の北側はアメリカ軍におさえられたので大変な激戦はなかったのですが、南に逃げた人が激戦の目にあいました


B29による空襲は日中のみなのですが、艦砲射撃は24時間続いていたので、外出する事など出来なかったそうです


「ざわわ〜〜♪」という曲が主題歌のドラマがありましたが、戦争はあんなのどかな“さとうきび畑"を歩けるようなもんじゃない!昼は絶対に歩けない、偵察機に見つかったら即攻撃を受ける、アメリカ軍はねずみ1匹逃さないほどだったといいます


ひめゆり学徒達は壕(洞窟)で看護活動に従事していました
壕には2種類あり、頑丈な洞窟と、高い山を削った横穴式のもろいものがあったそうです


学徒動員されなかったにも関わらず、当時の軍国教育の影響により
上江田さんは親が止めるのも振り切り自ら看護活動に志願し、もろい横穴式の壕で働いたそうです


血と汗と尿の臭いの酷い壕には、薬もなく軍医もいなく衛生兵すらもいない
ただ寝かせておいて、死んだら捨てるだけだったそうです


食料は1日1回ピンポン玉くらいのおにぎりだけ。。。


「あれを地獄というのだと思う」と上江田さんは言いました


映画の中でも、私がインタビューに同行させていただいた吉原秀子さんも、上江田さんも、みなさんおっしゃるのは
「眠った」という記憶がない。。。。
立って棒につかまりながらうとうとするのがやっとで、あとは働き通しだったと言います


ある日、壕の移動命令がでました。しかしそれは歩ける人だけが行くという事で、歩けない負傷兵は残らなければなりません
残った負傷兵には手榴弾が配られた。。。


軍国教育を受けていた上江田さんは
「私にも手榴弾を下さい」
「死に方を教えて下さい」
と言ったそうです
まだ15歳の少女だったのに。。。。


解散命令後に家に戻った上江田さん
娘の荷物から手榴弾を見つけた父は、どんなにか悲しかったでしょうか
それをこっそりと捨てたといいます


当時、まともな死体など見た事がなかったそうです
元気な男子は防衛隊に連れていかれるから、逃げているのは女子供とお年寄りばかり
負傷したらその場に置いて行くしかなかった


軍馬が腐った臭いは、クサイというレベルではない


足下がやわらかいな?ふわふわするな?と思うと、歩いているのは死体の上だった


出血多量になった人はとても水を欲しがるそうで
「水をくださ〜い」という蚊の鳴くような声は、忘れられないといいます


そして、伺っていて何より悲しかったのは、看護活動から生き残って
やっと家族3人で一緒に逃げようとした朝に
上江田さんの目の前で、お父様が「日本兵」に撃ち殺されたことでした。。。


上江田さんは、その事を何十年も口にする事ができなかったそうです
辛い思いをした人ほど、それを口にする事ができない。。。
そして、本当に悲しい時は、涙すらでない。。。
涙を流せるというのは、まだ精神が正常なのだ
考える暇もなく死体を捨てるようになってしまうのだ
ともおっしゃっていました


「戦争とは、そういうものなのだ」そう、上江田さんは言います


自分が逃げるのが精一杯で、家族の事を考えている暇もない
父を撃ち殺した日本兵のように、冷静な判断などできずとにかく生き残ろうと必死になり何でもする
それが、戦争だと


目の前で同級生が肉片になってしまう姿、その同級生の血で自分の全身が赤鬼のように真っ赤になる、父を殺される、、、、
そんな壮絶な体験を口にするのは、今でも身を削る思いなのでは、、、と思います


何十年も口にする事ができなかったその体験を、皆に語り伝えなくてはいけないと思い、話すようになったのは、戦後自分が勤めていた高校の生徒が、「お話を聴かせてほしい」と言ってきたのがきっかけだったそうです


この子たちのために、話さなければ、と。。。

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上江田さん、インタビューをさせていただいた吉原さん、そして映画に登場するひめゆりのおばあちゃんたち、それぞれがした体験は違うけれども、みんながおっしゃる共通のことがあります


「二度と戦争を起こしてはいけない。あんなに辛い思いを自分の子供や孫には絶対にさせたくない。そのためなら命ある限り、どこへでも出かけて話続けます」と。。。。


「憲法9条は絶対に変えてはいけない!今の日本は、私達が子供の頃受けた軍国教育と同じ方向に向かっている」とも。。。。


「今劇場で上映されている美談の戦争映画やドラマから、戦争がああいうものだなんて思ってはいけない、そんなに甘いもんじゃない」など、自分のつらさだけではなく、未来の私達への思いやりなんです


「ひめゆり学園」は、難関で優秀な生徒があつまる学校だったそうで、おばあちゃんたちはみんな、とても聡明で品があります。
「日本は視野が狭かった。だから視野の広いアメリカが勝利した。今の若い人たちは、もっと海外に出たり、海外の事も知って、広い視野から日本と世界を見つめる必要がある」と、自らも海外へ旅に出かけていくそうです。


ひめゆりの他にも、白梅やずいせん、鉄血勤皇隊などの学徒動員があり、多くの若い命が失われました


私もそうでしたが、今まで知っていた情報はテレビや映画で作られた、フィクションのひめゆり物語ばかり。。。あまりにも真実と違い、自分たちへの取材もなく作られるフィクションが世に出る度に、おばあちゃん達は傷つき、憤ってきたそうです


それだけではなく、ひめゆりという言葉が勝手に一人歩きしていて、自分たちがアピールしていたわけではないのに、他の学徒の方々や沖縄県民の方から「なんでひめゆりばっかり!」とひがまれる事もたくさんあったそうです


戦争であんな体験をしただけでも本当につらい事なのに、戦後になって何十年なってからも、まださらに辛い思いをしなくてはいけないなんて、、、、悲しすぎます


おばあちゃんたちは、戦争というものが、どれだけ酷く二度と起こしてはいけないか、というのを伝えたいから、忘れたいような辛いことを話してくれているのに
こんな事があるから、最初は映画化されるのは嫌だと言っていたそうです、でも「わたしたちもいつかは消えてなくなる」からと、形として残る「映画」が完成したそうです


これだけ読むと、観に行こう!と感じてくれた人以外にも、重いな〜などと感じる方もいるかもしれません


でも、この映画の素晴らしい所は、その重さだけが残るわけではない所なんじゃないかな〜と思います☆


その体験が壮絶だからこそ、それを乗り越えて生きてきたおばあちゃんたちから、人間の魂や精神の強さ、生きる事の楽しさや素晴らしさまで感じられます


10代で亡くなった同級生に、戦後の平和な時代の思い出をたくさん話したい。。。と語るおばあちゃん。。
おばあちゃんたちの、この大切なお話を、多くの方にぜひ届けたい、と微力ながら神無月も願います!!


当日精算券や、割引鑑賞チケット、いつも持ち歩いていますから、お気軽にお声をかけてください♪

戦争 | 15:27 | author 神無月好子/かんなづきすきこ | comments(0) | trackbacks(0)
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